交通安全教育を考える

日本ヒューマンファクター研究所
黒田 勲

1.交通安全教育は有効であったか
交通安全教育の目的は、「大きな運動エネルギーを持つ車両を、人間社会の中で、いかに他人に迷惑や危害を与えることなく、自分も危害を受けることなく運転し、安全に、便利に、快適に仕事をし、あるいは楽しむための方法を教えること」である。 果たして、この目的は達成されているであろうかを、過去の交通事故の発生経緯から見てみよう。 今から32年前、昭和45年(1970年)の交通関係の数値の指標を100とした時、平成13年の運転免許保有者数は286であり、車両保有台数は316である。約3倍に増加している。 一方、交通事故件数は昭和52年(1977年)に64まで下がったが、その以後、次第に増加し、平成9年からは交通事故件数は急速に増加して、平成13年には132となっている。 社会の注目を浴びて事故防止の重要指標とされている事故死亡者数は昭和54年に半減して50となったが、その後静かに増加し、平成4年には68となった。しかしそれからは減少傾向となり、平成13年には52まで下がった。下がったとは言え、平成13年には、なお8,747人も死亡し、1,180,955の人たち(指標120)が負傷をしている。 死亡事故死亡者数が減少しながら、事故件数も負傷者数も増加を示していることは、車両そのものの安全性が大きく改善されたことが大きく影響しているのかもしれない。 大局的に見て、車両数も走行キロ数も3倍以上となっているのに、事故件数が30%増に止まっているのは、交通安全教育の成果と考えるかもしれないが、余りにも多い死亡者数と、急速に増加する事故件数および負傷者数から見て、交通安全教育方法が次第に改善され、交通事故防止に役立っているとは、残念ながら言えそうにない。 諸外国の例をみると、1999年のOECDの交通安全統計によれば、人口10万人あたりの交通事故死亡者の最も低いのは英国で、6.0である。一方、日本では8.2で、約40%も多く、改善の余地があるといえよう。 近代車社会の大きな問題としての交通事故をなんとしてでも減少させ、科学技術の成果である車社会の恩恵を、安心して享受できる方策を考えなければならない。そのためには、車両を運転する人間に対する交通安全教育のあり方を、人間の情報処理特性、および人間行動学の面から、改めて見直しでみたい。

2.知識の教育
教育とか、教育訓練という言葉は広く安直に使われているが、その言葉は必ずしも正確に吟味されて使用されているとはいえない。教育訓練と、いわゆる「重箱読み」する表現は、「学識経験者」のように、似ているが異質な内容であることを総合的に表現する言葉である。ここでは知識の拡大の行為を「教育」、身体の行動の演錬を「訓練」と使い分けている。 交通安全教育は、次の3段階に分けて考える必要がありそうである。
1)知識の教育
2)技能訓練
3)「安全知」の教育
図1はケイダルのモデルを黒田が修正した人間の情報処理モデルである。このモデルから見られるように、コンピュータと比較して次のような主要な特徴がある。



図1 人間の情報処理モデル


(1)入力情報量は非常に多いが、中枢処理能力は非常に少なく(約1000万分の1)
   人間は単一情報処理系というべきである。
(2)情報処理の時間は遅い(コンピュータの約1000倍の時間がかかる)。
(3)このため、前処理過程により必要な情報だけを選択しなければならない。
(4)莫大な長期記憶がある(通常のパソコンの約10億倍)。
(5)これらのため、なるべく省エネルギーの方向に情報処理を変えようとする
   (入力情報のコード化や選別、短絡回路の作成、プログラムの簡略化を図る)。
(6)意識レベルによって支えられている
   (意識喪失によって、全処理過程はまったく休止する)。

 知識の教育とは、莫大な長期記憶の中に、新しい情報を順序良く整理して刻み込み、必要なときにすぐ引き出せるようにしておくことである。  交通安全教育では、地上の座学教育に相当し、わかりやすい本や使用説明書から車両のメカニズムや構造の理解とその使用方法、道路交通法の教育などである。特に法律の色々な項目がどうして定められているのか、なぜ守らなければならないのかなどの、知識の教育が十分に行われる必要がある。最低限の知識の試験に合格すると、実技訓練を開始してもよい仮免許証をもらうことが出来る。  ここで問題となるのは、車両などのハードウェアや規則の知識を得ることは出来るが、肝心の運転する人間の変動し易い、いろいろな性能の知識が教えられないことである。  図1に示す人間の情報処理システムに影響を及ぼす基本要件としての「ヒュ−マンファクタ−の6P」について以下に簡単に述べてみたい。

(1)生理学的要因(Physiological factors)
 安全を阻害する生理変化で、意識水準に影響を及ぼす疲労、睡眠不足、二日酔い、欠食による低血糖症などの内的要因と、外的要因としては温度、湿度、照明、騒音、振動、地磁気、放射能、作業空間、交替制勤務、作業−休養等の時間的リズムの乱れなどを考慮しなければならない。
(2)身体的要因(Physical factors)
 身体寸法に適合しない視野や作業空間、計器の見誤り、見落としを促進する操作盤のデザイン、ハンドルやレバー・ペダルの使いやすさ、椅子の座り心地や快適さなどである。
(3)病理学的要因(Pathological factors)
 運転をする時、一瞬の意識障害は重大な事故の原因となる。このため、心筋梗塞、心虚血症、脳循環障害、糖尿病の低血糖症候の可能性のあるもの、腎結石、胆のう結石、消化器潰瘍あるいはその穿孔などによる激しい痛み発作の可能性のある場合は運転をやめることが大切である。
(4)薬剤的要因(Pharmaceutical factors)
最近は生活習慣病で、薬剤を服用しながら運転を行っている人達が多くなってきたが、眠気や精神活動を低下させる睡眠剤、感冒に用いる抗ヒスタミン剤、精神安定剤、鎮痛剤、降圧剤等の服用は運転には適さない。抗糖尿病剤は時として低血糖症を生じ、意識障害やけいれんを伴う。向精神剤も運転に重大な副作用がある。  薬剤の中で最も重視しなければなれないのはアルコ−ルの作用である。道路交通法では血中アルコール濃度50mg/dl で運転業務が阻害されるとしている。シンナ−、覚醒剤、麻薬、大麻等による精神障害状態が、運転だけでなく社会的にも問題となっている。
(5)心理的要因(Psychological factors)
 心理的要因は、人間の正常な情報処理に大きく影響を与える。特に日本人の陥りやすい心理の落とし穴は、「あせり」、「おごり」、「メンツ」、「単調・退屈」、「不安」などである。 交通事故の心理的背景で最も多いのは「時間に間に合わそう」などの「あせり」である。また熟練ドライバーの陥りやすい問題点は「思い込み」、「慣れすぎ」、「自信過剰」などの心理状態である。運転には心の平静さ、慎重さ、思いやり、敬虔さなどが特に大切である。
(6)社会心理的要因(Psycho-social factors)
 会社の仕事が大きな心理的ストレスとして事故の背景となっていることが多い。急がす仕事、過剰な作業効率の重視、経済性への偏重、風通しの悪い職場、安全に関する意見が率直に言い出せない職場雰囲気、人間関係の悪さなどは、運転時の心理に大きな影響を及ぼしている。

3.技能訓練
 知識教育と技能訓練は全く異質の人間行動過程であることをまず認識する必要がある。いかに多くの知識を積み上げても、優秀な技能者にはなれない。なんとなれば、知識は大脳の情報蓄積量に関連しているが、技能は知識を応用して手や足が動く身体行動を言っているからである。図1の流れのうち、外界からの大量の入力情報のうち、必要とする情報だけを選別する「前処理」操作の「選択順序の型付け」を訓練と考えればよいであろう。


図2  ラスムッセンの人間行動モデル
 図2はラスムッセンの人間行動モデルである。図1はこのモデルの「知識レベルの行動(Knowledge Base)」を示しており、「規則レベル(Rule Base)」と「熟練レベル(Skill Base)」の行動は、図1の感覚から直接に操作に至る短絡回路を詳しく示したものと考えると良い。
(1)知識レベルの行動ー教習所へ通い始めた時
初めて運転訓練を受けた時には、外界からの情報をいちいち吟味しながら、記憶に詰め込まれている知識と照合し、教官の言う教示に従って対応操作を行う。このため、操作はぎこちなく、自信なく、何時も遅れる。注意が一点に集中して周囲が見えない。また一生懸命やろうとすると却って巧く行かないで、焦るとメタメタに操作が乱れる。 このレベルの事故はこすったり、目測を誤ったりの自損事故が多いが、重大な事故になることは比較的少ない。
(2)規則レベルの行動ー若葉のマークのとれる頃
  やっと手足がスムーズに動き始める。自分自身での一定の操作の順序が出来る。注意配分が少し良くなって、自信を持ち始めると共に少し自惚れる。このレベルでは運転中に話しかけると危険である。まだ十分に車両の性能や環境変化に対応できず、注意配分もまだ狭く、初心者の交通事故が発生するレベルである。
(3)熟練レベルの行動ー免許取得後3年位経った頃
  独りでに手足が動き、余裕をもって周囲に注意を払う。鼻唄まじりで運転が出来る。自分の腕に過剰な自信を持ち始める。スピードが怖くない。携帯電話やカーナビ等の事故が多くなる。事故を発生する可能性は少なくなるが、もし発生すると大きな事故につながる。

以上の行動の変化は通常の環境条件で車両を動かすことのできる技能の訓練である。このレベルの行動が出来ると一応運転免許が与えられる。しかし、あくまでも自動車教習所で訓練を受けた環境下だけの制限付であることを忘れてはいけない。 降雨時のハイドロプレーン現象、雪道でのスリップ現象、夜間走行時の人影の蒸発現象、最大ブリーキ踏み込み時の身体ののめりなどのときどき遭遇する異常状態の体験はしてはおらないので対応は難しい。このような、稀にしか遭遇しないであろう危険な運転環境についての交通安全教育をすでに実施している教育機関が増えてきた。 運転技能訓練を人間情報処理の面からみると、同じ操作を繰り返すことによって、十分な中枢情報処理をすることなく、自動的に手足が動くように、簡略化されたプログラムに変更することが出来るのが人間の「省エネルギー原則」の特徴である。このおかげで、人間は、一見同時多チャンネル処理が可能であるかのような幻想を抱き、運転をしながら乗客と話をすることも出来るし、音楽に楽しむことも出来る、しかし、基本的に人間は単一チャンネル処理機能しか出来ないことは、携帯電話で話し中の事故やカーナビに注意を注いでいるときの事故が多いことを見てもわかる。また体験をしたことのない異常状態には対応する情報処理回路が作られていないので失敗をする。  このような行動レベルの異なる技能レベルの差異から考えると、同じような形態の交通事故であっても、その背後にある人間の行動レベルが違えば、そのレベルに適合する対策を考え出さなければならない。このためには事故の背後要因をヒュ−マンファクタ−の面から詳細に分析をし、有効な対策を策定することが大事ではなかろうか。

4.安全知の教育訓練
 交通安全を達成するために大事なのは、知識、技能レベルより一段高い社会的レベルの「安全知の教育訓練」であるにもかかわらず、今まで積極的に教育訓練されておらず、また方法も確立されていない。  今まで述べてきた教育訓練は、車両をいかに運転するかとのテクニックであったが、大切なのは、初めにのべたように、「交通安全教育とは大きな運動エネルギーを持つ車両を、人間社会の中で、いかに他人に迷惑や危害を与えることなく、自分も危害を受けることなく運転し、安全に、便利に、快適に仕事をし、あるいは楽しむための方法を教えること」である。このことは、一般社会の一員として習得した技能が社会の中でいかなる位置づけにあるかをしっかりと認識することである。具体的には、大きな運動エネルギーを持つ車両が、ほんの少しの不注意やミスによって、いかなる重大なリスクを、自分自身が傷害を受け、さらに社会や他の人々に与えるかを知ることである。しかもその結果、いかなる社会的責任を負うかという常識を認識することである。このことは一般産業で行われている「リスクマネジメントシステム」の個人版であるとも言えよう。「リスクマネジメントシステム」の一般概念は図3に示すとおりである。


図3  リスクマネジメントシステムの概念図

 まず事故が発生した後の危機管理が大切である。被害の拡大防止のための現場での応急処置、通報のあり方などの知識。事故後の処理手続き、被害者、あるいは自己の傷害への対処のあり方。法的責任の重大性など事故のリスクに関する「安全知」の教育がしっかりとなされなければならない。 このような事故発生後のリスクの重大性の認識に基づいて、事故発生を未然に防止する「リスク管理」の発想がもっと大事である。ハインリッヒの法則を引用するまでもなく、重大な事故の背後には小事故が29件、ヒヤリ・ハットが300件も発生している。事故に至らないヒヤリ・ハットの時点で、その背後原因を追究し、いかに事故を予防するかとの着想と工夫が大切である。このためには「危機管理」の重大性に関する交通安全教育と、そのフィードバックとしての「リスク管理」の知恵を醸成する教育がなされなければならない。 「リスク管理」の重要な手がかりとして、同じ業務を実施しているにもかかわらず、長期間にわたり交通事故を起こしていない人々および組織・企業から、事故防止のコツを見習うことが大切である。  個人の面については、丸山定則先生が20から30年間、職業ドライバーとして無事故・無違反であった9人のドライバーを調査した結果、次のような共通的適性があること判明した。

   1)自分は下手な運転者である。(全員)
   2)仕事の後、チビチビやりながら今日の運転を振り返る。
   3)心の平静さを常に保つ。相手に譲る。
   4)バック時は一旦降車して後ろを確認する。
   5)車の運転性能を熟知している。
   6)予測能力ー曜日毎の混雑度、相手の行動
   7)風通しの良い職場の安全風土ー後輩の育成、技術の伝承
   8)家庭の理解と協力

ここに述べたように、自分の能力に自惚れることのない敬虔さを持ち、常に向上心を失わず、豊かで、暖かく、しかも慎重な性格を持つ人たちが無事故を続けている。 一方、無事故の組織の特徴としては、次のような企業の安全文化の雰囲気を持っていることが挙げられている。

   1)社長が安全に強い関心がある。
   2)全員が自律的に安全を守る、生き生きと行動している。
   3)迷ったら作業を止めてでも確認する風潮がある。
   4)現場作業員が安全担当者に気楽に相談できる。
   5)新しいことに取り組む雰囲気がある。
   6)皆が規則に従い、規則を守る。

5.おわりに
日本の交通事故による死者数は減少しているが、事故件数も負傷者数も急速に増加している。このような傾向を是正するために、交通安全教育の果たす役割は重大である。 本報においては、従来の交通安全教育の問題点を考え直し、運転の基本となる人間特性の教育の実施と、車両運転技能者を育成するだけでなく、今一段次元の高い、車社会における運転者の社会的安全意識や安全倫理、いわゆる「安全知」の教育訓練およびそれを育成する組織、企業の安全文化のあり方について述べてみた。21世紀の新しい交通安全教育のあり方として、今後の交通安全教育が改善、進展されることを心から期待している。




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